美波町・歴史

odaishi.jpg弘法大師と日和佐 ~日和佐縁起~

 

日和佐を中心とした上灘(かみなだ)一円は、その昔“和射”(わさ)郷と称していましたが、ある時から“日和佐”と呼ばれるようになりました。

そのいわれについて「阿波国村誌(明治13年徳島県庁調査)」に、こんな逸話が掲載されています。

「~古老伝に、往古“和佐”(和射)と言いけるが、空海はじめてこの地へ着船、浜へ上がりし時、旭登れるに所の名を問ふ、土民「和佐」と答へるが、朝日を受けて良き地なりとして「日和佐」と言しよし」
“日和佐”という地名は、弘法大師によって付けられたと言い伝えられているのです。(寺の四方の地に「河」の字名(あざな)を付けたのも、大師だと伝わっています)

 

 

 

 


 

yakuouji.jpg醫王山無量寿院薬王寺 ~薬王寺縁起~

 

四国第23番霊場「薬王寺」は、神亀3年(726年)に「聖武天皇」の勅願を受けた「行基菩薩(ぎょうきぼさつ)」によって一寺を建立されたのが始まりとされ、その後、弘仁6年(815年)に「平城上皇」の勅命を受けた“弘法大師”が一堂を建立、開基なされた名刹です。

本尊「厄除薬師如来」は、大師自らが刻み入仏されたものといわれ、文治4年(1188年)の大火の際には、本尊自ら奥之院のある「玉厨子山(たまずしやま)」へ飛び去り、その後の伽藍の再興とともに玉厨子山より飛び帰り、新仏と向かい合って鎮座なされたという伝承があります。

そのため本尊は「うしろ向き薬師」と呼ばれています。

 

 

 

 

 


 

gozeyama.jpg後世神社 ~後世山伝説~

 

後世山(ごぜやま)は、美波町と福井町にまたがる標高538・8mの山で、山上には「後世神社」があります。

社伝によると「元和元年(1615年)土佐の「長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)」の長子「盛親(もりちか)」が、豊臣方に従い“大阪夏の陣”に出陣したが敗北。

主人が捕えられたと聞いた「盛親夫人」は、下僕ら数人を連れ土佐から京へ上る旅路に出たが、途上で「盛親」の死を聞き悲嘆の余り盲目となり、辿り着いた下原で“路銀”を狙った賊に襲われ、主従と供に「総が淵」に身を投げた。里人は、夫人を憐み“せめて土佐の国が見える処へ”と、この地に祀り「後世神社」と称した」とあります。

 

 

 

 


 

hamatarou.jpgウミガメ生態研究の発祥

 

昭和25年6月、大浜海岸に上陸した「アカウミガメ」の死体を見つけた、当時の「日和佐中学校」の生徒たちの手によって、ウミガメの生態研究と保護は始まりました。

生徒たちは、理科教論「近藤康男」氏の指導のもと、地道な研究と観察を続け、後輩たちに受け継がれた研究の成果は、“世界で初めての研究である”として「日本学生科学賞学校賞(昭和35年)」を受賞しました。

その後も子供たちの取り組みは、「国指定天然記念物」や「うみがめ博物館設立」の礎となりました。現在も飼育されている、国内最長寿のアカウミガメ「浜太郎(昭和25年生れ)」は、当時の子供たちによって育てられた最後の1頭です。

 

 

 


 

tai_iseki_1...田井遺跡

 

注目されるのは様々な石を材料とした石器の道具やアクセサリー類である。
石鏃(せきぞく)にはサヌカイトやチャート、石斧には結晶片岩、けつ状耳かざりには滑石や蛇紋岩というように、それぞれの道具に適した石を選んで制作していたことが分かっている。

ぽっぽマリン2Fには、出土した石器、けつ状耳かざりなどのレプリカを展示しています。

由岐ふれあいホール資料展示室
●Tel. 0884-78-2933

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